歴史上初の一寺一宗
空海は東寺を密教の道場とするにあたって、日本どころか唐においても例のない、歴史上初めての一寺一宗のシステムをとりました。
当時は、唐においても日本においても、寺を一宗が独占することはなく他宗に対して開かれていました。
その寺の特徴とする学問や行法を学びたい者であれば、その僧が他宗であってもかまわなかったのです。
この原則は今でも中国の寺院においては、いきています。
「御遺告」によれば、空海は「密教の道場として東寺を賜ったことは、歓喜にたえない。今後は、非門徒の者(他宗の僧)を住まわすことが無いように。これは狭き心でやるのではない。真を護るためにやるのである」と弟子たちに宣言したそうです。
さらに、この一寺一宗の鉄則をただの寺院の私法にならないように、官に願い出て太政官の官符による禁令まで下げてもらっています。
空海はこの東寺を教王護国寺と呼び、東寺を人々対する教化のための道場とし、高野山を修行のための道場としました。
空海は他宗僧の雑住を禁止することによって、泰範のような問題が繰り返されることを防ごうとし、また密教が既成仏教の中に新しく入ってきた呪術部門であるという印象を払拭し、密教が一宗であることを護ろうとしたと考えられています。
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