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【新企画・麺斎さんのコラム】
感性・うどん・弘法大師
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「おおきに、ご馳走さんでした。ほんまに美味しおした。さすが但馬(たじま)牛や。これまで佐賀牛が一番や思うてましたけど、月とスッポンやわ」
「そうでっしゃろ。わては『吉兆』はんには大事なお人しか案内しやしまへん。きょうは味の分かる方に喜んでもろて、嬉しおす」
ほんとうに美味しかったなあ。
――そこで目が覚めた。木枯らしが初めて吹いた朝で、寝床で考えた。
「あの超高級料亭でいっぺん食事してみたい」という願望が潜在していたのだろう。われながらイジましい。それにしても赤っ恥をかいた。招待主(それが誰だったかはトンと見当つかないが)は小生以上の恥をかいたことになる。「但馬牛」と称して出されたのが、実は「佐賀牛」だったというのだ。
恥を雪(そそ)ぐは男子の面目である。そうだ、これは討ち入りに値する事件だ。今にして赤穂義士の心情が解かる。決行しよう。あの招待主も誘おう。12月14日、太鼓打ち鳴らして『船場吉兆』を襲撃するのだ。馳せ参じる者も多いにちがいない。
そのときやっと気がついた。「それは恥の上塗りというものだ」と。小生「但馬牛」と「佐賀牛」の違いが分からず、『吉兆』という暖簾(のれん)にまどわされていた味覚オンチに過ぎなかったのだ。
「感性の自立」。今求められているのはこれである。真(ほんもの)・善(正しいこと)・美(うつくしさやおいしさ)を「自分で」感じ取ることの大切さである。逆に言えば、ニセモノ・不正・おかしな食べ物は断固拒否するという姿勢である。
食品の良否は「賞味期限でなく」自分の視覚・臭覚で判断する、表示偽装をパートの責任に転嫁するような会社の製品は買わない、佐賀牛のほうが但馬牛より美味しいと感じればそうとはっきり主張する。
この勇気が「真の日本の食文化」を育てていく。
「隗(かい)より始めよ」と小生なりに努めている。悲しいかな、戦中戦後の食糧不足時代に育ったせいか、何を食べても美味しいと感じるのである。これは欠点だ。そこで、「美味しいと言われているもの」を食べてみて自分の感覚と比べてみるというトレーニングを続けている。
そんなわけで先日、A級グルメ評論で著名な山本益博さんが絶賛する徳島市『よあけ』のラーメンを食べにわざわざ訪ねて行った。ところが、信じられないことに、「家族病気のため臨時休業」とあるではないか。
ああ――。
話は飛ぶが、王羲之や顔真卿の書がよく解からない(恥ずかしながら)。習字教室の生徒の作品とそう変わらないように思える。だからといって、今さら「いいね」「いいなあ」という感性を得ることは不可能である。ところが、「食」は生存本能にかかわるもので、学習機会は日常そこらにある。要は、その気になるかならないかの問題だ。
少し誇張して言えば、「食の感性を磨く」ことは「人間としての感性を磨く(深める)」ことに連なる。それは、五感ないし六感がクロスオーバーすることと言ってよい。
『般若心経』に「色・声・香・味・触・法」という感覚が列挙されており、それぞれ「眼・耳・鼻・舌・身(皮膚や粘膜)・意(脳神経細胞)」などの器官に対応しているが、「クロスオーバーする」とは「音を観る」「香を聞く」という越境感覚のことである。
「うどんを食べる」という行為でみると、目で食べる(盛り付け)、香りを賞味する(風味)、舌で味わう(特につゆやスープ)、歯やノドの感触(歯応えやコシ)を味わう、ズルズルっという音に高揚する、熱さ・冷たさ(温度)に癒されるなどがある。店の造りや雰囲気、料理やサービス、店や料理にかかわる歴史や言われ、それらについて共感を求める、という味わいもある。これらが分かち難く一体となって「美味しかった」という本能をゆさぶる感動が得られるのである。
それともう一つ、はるか祖先の味覚の記憶を呼び戻すということがある。
以上のことを「論理」で説明するのは不可能に近い。
最新の脳科学によると、人間の脳は、発生・進化にしたがって本能をつかさどる「動物の脳」、感覚や感情をつかさどる「原始哺乳類の脳」、論理や知性をつかさどる「ヒトの脳」の三重構造になっているという。
いちばん厄介なのが「ヒトの脳」で、物事を論理=科学でしか見ようとしないから、けっきょくモノが見えないのである。曼荼羅を博多織の図柄くらいにしか見ようとしない人間に「論理を超越した世界」のあることや「霊性」を説いてもムダである。
いま「霊性(スピリチュアリティー)」が関心をよんでいる。書店に専用コーナーがあるほどだ。よく混同されるが、死後の世界がどうとか、霊魂との交信とか、呪(まじな)いのことではない。今生きている人間にとっての「命の本源」「命の姿」「命の働き」の問題なのである。これこそまさに弘法大師が求めたものだ。
弘法大師の「真言宗」は、小生の理解では、「ヒトの脳」を突き抜けて「原始哺乳類の脳」「動物の脳」を取り込むことによって命を拡げる「行(ぎょう)」の体系といってよいのではないか。そのスケールで考えないと、「性交の恍惚感は菩薩の位である」といった言葉が矮小化される。
別言すると、それは「感性開発の教え」である。
ずいぶん飛躍してしまったが、「食」という生存の大もとにかかわる行為において、感性に第一級の役割を担ってもらわなければならない、ということが言いたかったのである。
さる高貴な方から深夜お呼びがかかり、平服でいいからすぐ来てくれという。急いで参上すると、「この酒を一人で飲むのが寂しかったのだ。家の者は寝てしまったから、すまぬが何か肴(さかな)になりそうなものを捜してきてくれないか」と言われ、台所にいくと、素焼きの皿に味噌が残されていた。それを持っていくと、「これでじゅうぶんだ」と言われ、二人で楽しく杯を重ねた・・・。
小生の好きな『徒然草』の一節だ。このような「食」の感動もある。
(2007年11月 麺斎)
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